〜概要〜
諏訪には出雲系および古代イスラエル系の
人々が移住しその人々の信仰風習の伝承が
なされた。
そして、ヤマト王権にとって最大の敵対勢力であり、
敗北した建御名方神、物部守屋が諏訪大社上社に
祀られており、ヤマト王権は祟りを恐れその霊を
慰め、古代イスラエルの諏訪古来の信仰を尊重した
ことが、諏訪大社上社にこの神事が残っている理由
ではないかと推測される。
その伝承に大きく貢献したのが、信濃を支配していた
神祇(じんぎ)崇拝(日本古来の神々を崇拝)
派の物部氏と、秦氏(はたうじ)ではないか。
秦氏は古代イスラエルの信仰を日本の神道として
広め、善光寺本尊を運んだ氏族でもある
〜諏訪大社〜
信濃の国一宮、
諏訪大社は本州中央部部にある諏訪湖を囲んで
4つの社からなる神社である。
神職の話によるとまず山を拝するために
無人の前宮ができた。それから大きな
本宮ができこの二つを「上社」とした。
もともと山を拝するので山岳的で男性的な
特徴がある。
次に農耕的な稲作としての神を祀る「下社」が
できる。濃厚には季節的な要素があり春宮と
秋宮とした。こちらは女性的な特徴がある。
これらを含めた総称が「諏訪大社」となる。
「諏訪が分かれば日本の歴史が分かる」
旧石器時代から縄文時代にかけて本州最大の
黒曜石の産地であった
諏訪大社の祭神は建御名方神(たけみなかのかみ)
前宮→最も歴史が深い。見どころは御柱
本宮→長い木造廊下があり独特な作り
春宮→秋宮と似た作り、徒歩5分で万治の石仏
秋宮→滝としめ縄が目玉
〜御柱〜
「諏訪大明神絵詞」によると
御柱祭は桓武天皇(784-805)の時代から
あったと記述されているが起源については
書かれていない。
想定できる5つの起源説とは?
1.結界を作るどっこ(両側が尖っている杵形の仏具)
と同じ役割
2.神殿の建て替えを簡略化(神社全てを建て替える
と大変な費用がかかるためその四隅の柱だけを建て替えるようになった)
3.トーテムポール
4.神話によるご祭神タケミナカタを封じる
5.古代より政界は4本柱によって支えられているという
神話が多くある
〜諏訪大社の謎〜
諏訪湖周辺に住む人々は
縄文時代より米ではなく鹿や猪を食べていた。
柱を四隅に立てるのは諏訪地方独特の風習
なぜ諏訪の地だけ「御柱祭」をはじめ
特別な祭りや風習が残っているのか?
〜ユダヤとの関係〜
・前宮にある十回廊が寸法、方位等ユダヤ人が
使っていた移動式礼拝神殿の幕屋と同じ
・御頭祭という鹿の頭を75頭捧げる謎の祭りは
旧約聖書のアブラハムとイサクの出来事と同じ。
前宮の裏山は守屋山(もりやさん)と言い、
イサクの出来事はモリヤ山で行われた。
・御柱祭は山から柱を切り、それを引きずり
本堂へ持って行く祭。これは古代ユダヤ大国の
ソロモン王がエルサレムのしんでんを建築するさいの
祭と類似している。
ユダヤでは木の神様を「アシラ」と
呼んでいた。そこから「アシラ」→柱に
なったのではと推測できる。
〜ミシャグジ神〜
→諏訪の古代の神様
「御左口神」「御石神」「御社宮司」等の表記があり
語源的はアイヌの音と通じている
諏訪地方の神体山にである守屋山の麓には
先住民のモリヤ族という呪術集団がいたと
伝えられている。またモリヤ族は物部の系譜に
繋がる人たちでもあり諏訪盆地を神聖な地として
移住したのではないかと思われる。
前宮は本宮と違い小さく、周囲に四本の樹木が
植えられている。この形は朝鮮から
移入されたもので、本宮の全身の姿を
留めているのではないかと見られる。その視点から
モリヤ族の出身は朝鮮系という可能性もある。
〜諏訪の七不思議〜
1.湖水御神渡
2.蛙狩神事
3.五穀の筒粥
4.高野の耳裂け鹿
5.葛の清池
6.御作田
7.宝殿の天滴
〜掘さん見解〜
諏訪地方の縄文文化が、最後まで残った。
その時の縄文の主が洩矢神といいます。
出雲から稲作文化をもたらした建御名方命と争い、
洩矢神は負け諏訪地方に稲作文化が普及した。
五穀豊穣を祈る神社が諏訪大社、春宮は種植え、
秋宮は収穫祭、神社の大柱は、縄文の名残りで、
祈願の象徴と書いてある
負けた洩矢神は、守矢として諏訪明神の神長官として
今日まで続いている
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